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ぼくらの見分けかたは

雪ん子もようのあるなしでわかると思う

ぼくはぴっちゃん

 雪ん子もようは後頭部にしかないよ

あとちょっと甘えておおらかな顔つきしてるって

かいぬしにいわれる      ぷぷぷ

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ぼくピリカ

目の横とお胸のところの雪ん子模様で

簡単にわかるでしょ

あとカミカミするものを探求する目つきしてるって言われてるよ     カミカミ

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白文鳥さん2羽と暮らしてる方って

お顔や仕草でちゃんと見分けてるんだと思うと

すごいなって思います


顔の話をします

ダヴィンチの「最後の晩餐」の絵画のはなしです

あらかた書き進んで

いよいよユダを描く時に

ダヴィンチは街で人相の悪い

いかにも心に卑屈な澱みを湛えたような男を

スカウトして彼をモデルにして描きました

モデルの男はじーっとダヴィンチを見つめて

「先生、わたしを覚えていませんか?」と言う

ダヴィンチははて、誰だったかいなと

かつてあったことあるようなないような

(でもワシ有名人だし、いちいちファンのこと覚えられんし)

などと考えたかどうかは知りませんが。

すると彼は

「先生、わたしはかつてイエスキリストのモデルとしてここにきていました。

わたしはあれからたくさんの酷い目にあい

また酷いことを行い

このような顔で今、先生の前にいます」と言ったそうです。



本当の話かどうかはわかりません

何年も前にカトリックの司祭が話してくれたことです。

つまり

もともとの顔は親からもらったものであるが

そこから先の顔を形つくっていくのは

その人間の内面、心のありようや

その人の生きかたである

という話です


先日友人と10代の頃の写真を見ていました

そこにあるのはただの若い生物の顔でした

笑ったりポーズをとったりしていましたが

正体不明のただの目、鼻、口でした

残念ながら

まったく綺麗ではありませんでした(笑)


今、鏡に映る自分の顔は

今を確かに生きている人間の顔でした

何度となく泣き、笑い、かみしめ

存分にその時々を生きてきた豊かさが

ひとつひとつのパーツに宿っているのです

わたしだけの誰にも似ていない私の顔が

できあがっていました

綺麗とか綺麗じゃないとかもはや

どうでもよく

作り上がり

また、これからいかようにも変容していくであろう今の顔を

とても

すきだとおもいました